2021年6月26日土曜日

フレキシタリアンについて

 「ワインと肉料理は食べないようにしているの。だって、大好物だから。」

 ロシア留学中にお世話になっていた女性の言葉を思い出した。イトーヨーカドーの肉売り場でだ。何かと言うと「断食」の話である。ロシアでは正教徒の人が多く暮らしているので、春頃から街の食事処には「断食用」のメニューがたくさん溢れていた。「断食」と書いたが、正教会の断食は一般に思われている「断食」のように食事自体ができなくなるわけではない。食べられる品目が制限されるのである。肉や乳製品をふんだんに使って料理をするロシア人からすると、「断食」の時期に制限される品目は辛いものだ。だからこそ、キリストが味わった苦役を疑似的に体験するというこの行為が意味を持つのであるが。

 少なくとも私の生まれ育った環境で、自ら食事に制限を加える(病気で仕方なくというのは別として)という習慣は殆ど無かった。なので、信条として食事に制限を加えるという行為に私はとてもエキゾチックな印象を受けたものだ。

 最近は、ヴィーガンの活動や、SDGsへの関心の高まりから、日本でも食事を制限するムーブメントが広がりつつあるように感じる。その影響を受けてか、イトーヨーカドーの肉売り場で植物性のたんぱく質を使った代替肉が販売されるようになった。私が手に取った大豆ミートと印字されたシールが貼られたその商品。見た目は過熱後のひき肉を彷彿とさせる。なぜ私が大豆ミートを手に取ったかって?なんてことはない、ひき肉より安かったからだ。

 健康的な食事と経済的な要因に関して、とても昔に読んだ雑誌記事が印象的だった。雑誌の名前も、正確な年月も忘れてしまったので、とても昔の話だ。その記事では地中海に浮かぶ島(マルタ島だったと思う)の食事について書かれていた。その島では心筋梗塞の発生率が恐ろしく低く、平均寿命も高いという。蒸し野菜にオリーブオイルをたっぷりかけた食事がその理由だ。しかし、記事の最後でインタビューを受けた住民の男性は健康的な食事の習慣を作ったのは貧困という歴史であることを語る。食事に肉が少なく、オリーブオイル以外の調味料が使用されないのは、度重なる他国の支配によって島民が搾取されていたからだ、と。

 私の食事を支えてくれている動物は主に鶏さんである。鶏胸肉である。理由はシンプルで、一番安いからだ。悲しいかな、弱く小さな私は搾取される側であり、豚肉や牛肉を恒常的に、そして大量に摂取できるほど富める者ではないのである。

 というわけで、私が大豆ミートを手に取った理由は第一には経済的な要因に寄るところが大きい。だが、人間の行為は様々な要因の複合の上に成り立っているものだ。肉を食べないという選択に対して、反感が強ければ私は手に取った商品をレジへ持っていかず商品棚に戻しただろうと思う。私は試みに代替肉というものを食べてみることにしたのだ。それはやはり、自分の信条として食事に制限を加えるという生活をおくる人々の近くで暮らしていた経験がある程度影響していたと思う。

 結果から言うと、大豆ミートは美味しかった。そして自分の食事もある程度変化した。毎日飲んでいた牛乳は豆乳に変わったし、大豆ミートは定期的に購入している。鶏肉を買う頻度は減り、豆腐を買う頻度が増えた。なんとなく、肉を食べない生活もいいかなと思ったのである。

 しかし、肉は美味しい。時々肉が無性に食べたくなる。そんな時、私は我慢せずに肉を食べる。豆腐と大豆ミートで節約された幾分かの銭が少しだけ高いお肉に投下される。だいたい、私は強い信条や信仰があって準菜食主義的食生活をしているわけではないのである。ひとえに経済的な理由なのだ。(豆乳以外はもともとの食生活よりリーズナブルだ。)しかし、結果的にそれが環境にやさしい生活となっているなら、いいではないか。

 もしも私が本気で菜食主義者を目指すとしたらどうであろう。そこで立ちはだかるのは思想の問題である。食べていいものと食べてはいけないもの。食べるべきものと食べるべきではないもの。この区別は恣意的で、そして穿った言い方をすれば「傲慢」だ。埴谷雄高の『死霊』で、キリストと仏陀が食べ物に責められる場面があるが、私はこの呪縛を乗り越えることができないのだ。(しかし、持続可能な社会や環境への配慮という立ち位置に立てば?これは時間をかけて考える必要がありそうなので別の機会にまわそう。)

 というわけで、食事から肉の影が薄くなっていた今日この頃。自分では、断食中のロシア正教徒みたいだなぁ、となんとなく思っていたのだけれど、今の自分を言い表すのにぴったりな言葉を見つけたのである。それは「フレキシタリアン」という。

 私はコーヒーが好きなので「PostCoffee」という定額制のサービスを使って、毎月ちょっぴり贅沢なコーヒーを楽しんでいる。このサービスは一か月に一度、厳選されたコーヒーを3種類、ポストに投函してもらえるというものだ。アンケートから各人のコーヒーの好みを判定してもらえるので、自分に合ったコーヒーを届けてもらえる。届いたコーヒーにレビューをすれば、自分好みのコーヒーが届く確率は更に上がっていく。

 コーヒーと一緒に『POST』と題された小冊子が送られてくる。毎月、コーヒーに関する何稿かの記事が載っている。この記事の中で私は「フレキシタリアン」という言葉を発見した。記事の内容としてはあるロースターの方のインタビュー記事だ。その方が、「フレキシタリアン」[i]に挑戦していると言っていたのだ。

 「フレキシタリアン」。聞きなれない言葉である。これは、「フレキシブル」と「ベジタリアン」の二つの単語を繋げて作った言葉だそうだ。柔軟な菜食主義。極力肉を食べない食生活をしつつ、外食や特別な時には肉を食べるというライフスタイルである。

 そうか、私はフレキシタリアンなのか。かくして、私の生き方に外部から名前が与えられ、カテゴライズされる。それに少しだけ心地よさを感じている私を天邪鬼な方の私が嘲笑する。「嗚呼、なんという俗物!」

 

追記

本文内で出てきた「PostCofee」。コーヒーが好きな方にはオススメです。



[i] POST』、Issue15PostCoffee、9頁。実際は「フレキシタン」と記載されているが、「フレキシタリアン」という言葉の方が広く使用されているようなので、本文では「フレキシタリアン」という言葉の方を使用した。