そうだ漫画を描いてみようなどという記事を書いて、はや一か月。謎のイラストをあげたまま梅雨入りしてしまいました。
さて、(最近気づいたのですが、この「さて」が私の書き癖のようですね)この一ヶ月間私が何もしていなかったと思ってもらってはいけません。端的に言うとこの一ヶ月間は「充電」期間だったわけです。などと供述しており…。
本当はサボっていただけなのだけれども、言い訳してしまうのが人の常。まぁ、趣味の範疇で漫画を描こうと思いついただけなのでサボるも何もないのですけれど。そんなこんなで、のらりくらりと暮らしていた私。祖母の家から本を取ってくる機会があったので、前回の記事で書いた川崎昌平『労働者のための漫画の描き方教室』(春秋社、2018年)を回収し、再読していました。
うろおぼえで、という話をしたとは思うけれども、実際に読んでみると内容をほぼ忘れていました。というか、この本のスタンス自体がごっそり抜け落ちた状態でした。
この本の「はじめに」には次のようにあります。「本書は「労働者のため」に著された「漫画の描き方」の教科書であり、間違っても「漫画家になりたい人」や「漫画を上手に描けるようになりたい人」のために用意されたものではない。」[i]そして、この本のターゲットたる労働者は前提として「働くのに忙しい」。
「働くこと」=「自己表現」である人間は幸福です。目標の達成、技術と能力の向上、計画と立案。労働で得られるものは少なくはないだろうし、それが生きることの一部となっている(それを信じ込もうとしている人も含めて)労働者はたくさんいるでしょう。しかし一方で労働は生きるための手段でしかなく、「労働に搾取されている」、「働くことに喜びを感じられない」と考える人もいるのではないのかしらん?この本は、後者のような労働者に自己表現の手段を得て、生活を少し豊かにするための提案であると思うのです。
タイトルからもわかるように、著者は自己表現の手段として漫画を勧めています。理由としては、「道具などにそれほどお金がかからないこと、あまりにも高い技術的素養がもとめられないこと、真夜中などでもひとりでできること、できあがるまでにそこまで時間がかからないこと、つくった成果を他者と共有しやすいこと」[ii]を挙げています。
本書は三部構成になっており、第一部「内実編」で漫画を描くにあたっての心構えを詳述しています。第二部「技法編」では漫画を描く具体的な技法の説明です。第三部は「発表編」。ここでは、様々なツールを使った作品の発表方法や作品を発表するという行為の効用について書いてあります。
さて、私が一番面白いと思ったのは三部のうち、第二部の「技法編」です。全体としてこの本の前提は、労働者は「働くのに忙しい」。つまり、自己表現に使うことができる時間が限られているということに尽きます。そのため、この「技法編」ではいわゆる漫画らしさを支えている技法や文法をどこまで簡略化、あるいは削ぎ落すことができるかという点に重きが置かれているのです。特に第6章「漫画を描くための応用技術」では「表情不要試論」、「感情不要試論」…というように実験的にも思えるような考察が続いていきます。目指すのは商業漫画ではない、自己表現の場としての漫画である。自己表現とはつまるところ自己治療なのです。抑圧された感情を言語化し、形にし、外部へと表現すること。その行為を通じて、私たちの心は幾分か軽くなっていくのではないでしょうか。
しかし、自己表現は続けていけなければ意味がありません。続けていくためには、表現の方法はできるだけ簡単で時間のかからないものが良い、というのがこの本を一貫するスタンスです。ただ、そのような目的を脇に置いておいても、この技法編で論考されている「~不要試論」はとても面白いです。なぜなら、今まで自分が漫然と読んでいた漫画にどれほど多くの文法とコードが詰まっているかを認識できるからです。(ちなみに漫画の構成要素や表現技法に関しては序章で「ゆっくり読む」ことで学ぶ方法に言及があります。)
様々な構成要素を削り、簡略化してできた漫画は果たしてどこまで面白くなるのか。著者はまるで書きながら考えているかのよう。まるで、文学理論の古典を読んでいるような感覚です。「表現とは思考のための道具である」[iii]と、この本の中でも言及がありますが、まさにその通りで、私たちは著者の思考を追いながら、漫画を描き、自己表現するためのモチベーションを高めていくのです。
さて、本を読みモチベーションを高めることなら誰にでもできるのです。問題は、それを行動に移せるのかどうか。果たして私は漫画を描くことができるのか?それとも、文章を書くという自己治療で満足してるしな…、と言い訳して描かないのか。それはまた、別のお話。(つづく?)