2021年8月11日水曜日

偶然の読書と必然の読書

  時々、全く別々の文章に繋がりを見つけ、嬉しく感じることがある。繋がるといっても大した繋がりではない。ある小説のキーワードが別の小説でも多用されていたり、読んでいた小説の作者の名前が、偶然読んでいた雑誌記事に出てきたり、というような、繋がりと呼ぶことすらためらわれるような些細な繋がりである。

 例えば、今日見つけたのは四谷シモンと向田邦子の「繋がり」である。このあいだ本屋に寄った時、没後40年ということで向田邦子コーナーが展開されていた。私は、恥ずかしながらこの方の本を読んだことがなかったので、『眠る盃』(新装版、講談社文庫、2016年)というエッセイ集を買って帰ったのである。エッセイ集の感想は今日の記事の内容と関係がないので割愛する。(いつか書きたいですね。)そして今日、四谷シモンの自伝『人形作家』(中公文庫、2017年)を図書館で借りてきた私は、次のような文章を発見したのである。

 

「人形や手芸の出版で有名な雄鶏社に手紙を書いて、人形の型紙を送ってもらったこともありました。(中略)あとになって、このころの雄鶏社には向田邦子さんがいたことを知りました。」(『人形作家』、33頁。)

 

ただ単に、最近読んだエッセイ集の作者の名前が出てきただけである。この後に向田邦子についての文章が続くわけではない。それに彼女は有名な脚本家であるので様々な文章に書かれることはあるだろう、と言われてしまえばそうなのだが。それはそれとして、私はこういった小さな繋がりを見つけると嬉しい気持ちになるのである。

 なぜ嬉しい気持ちになるのか。それは、「運命」のようなものを感じられるからだと思っている。何気なく選び、読んだ本。その読書の連なりに些細な繋がりを発見した時、その偶然の行為が必然であったように感じられるのだ。私が『眠る盃』を買った数日後に『人形作家』を借りて読んだことは偶然ではない。それは、必然であったのだ。

子供じみた感性だなぁ、とは自分でも思う。

「運命」とは我々が関与できない大きな力を想定した言葉である。文章同士の「繋がり」を見つけ、必然を感じた時、私はそんな大きな力へ思いを馳せる。一体全体、どうしてこの本を読ませるように私を行動させたのだろう。それは単なる気まぐれで、お遊びかもしれない。あるいはとても重要な意味があるのかもしれない。どちらなのかはわからない。きっとそれがわかるのはもっと先のことだろう。いや、永遠にわからないかもしれない。私は本に目を戻す。次の繋がりを求め、読む。