2021年4月29日木曜日

人類撲滅POPについて。(1)

 

 指を動かすことすらしんどく感じられる眠気をこらえながら「人類撲滅POP」について文章化することにどんな意味があるのだろうか。

 おそらく意味なんてないだろう。時間の無駄である。明日の神聖なる労働に備えて一分一秒でも早く布団に入り、幸福な休息をとるべきなのである。それがこの人間社会に生きる一人の労働者としての「正しい」生き方だ。

 しかし、一度走り出した指は止まらない。私は「人類撲滅POP」について書かなければならない。人類撲滅POPとは何ぞや?

 人類撲滅POPとはその名の通り人類を撲滅する目的で書かれたPOP広告のことである。POP広告とはなんだろうか。POP広告とは我らがウィキペディア先生から引用(コピペ)すると「「Point of purchase advertising」(購買時点広告)の頭文字から取った略語で、主に小売店の店頭プロモーションとして展開される広告媒体である」ということである。

 みなさんも毎日目にしているであろうPOP広告。店に入れば必ずと言っていいほど商品棚に貼ってあるあれである。現代日本の人間社会で生活を送っていれば一日に一度は絶対に見るであろう(?)POP広告。店員さんが販売促進のために心血を注いで作るPOP広告。そこに人類撲滅の願いが込められていたらとても面白いと思いませんか?(私は思いませんね。)

 人類撲滅POPという言葉は、正直に告白するならば私が作った言葉ではないのである。では、誰がこの言葉を作ったのか。それは私の少年期に実家の近くにあった古本屋のお姉さんが作った言葉なのである。彼女は父親から継いだ古本屋を楽しそうに切り盛りしていた。(ちなみにその古本屋は私が高校を卒業した年に閉店した。)

 ある夏の日の事、私は漫画本を買うためにその古本屋へ入った。何度もそこで買い物をしていた私はすでにお姉さんとは顔見知りだった。その日、入店した私は店内の様子が前回の来店時とは違うことに気づいたのであった。名刺大の色付きの厚紙が商品棚のあちこちに貼ってある。近づいて見てみるとどうやら、本の紹介らしい。少し丸みを帯びた読みやすい字の手書きPOPである。私はわくわくしながら、そのPOP達を読み始めたのであった。

(指が止まってしまったので今日はここまで。明日へ続く。)

2021年4月16日金曜日

ブログ始めました(再)

  恐ろしいことに、昨年の2月に「ブログ始めました」というような趣旨の記事を掲載してから何の更新も行われていないブログがこの世界には存在しているようです。はい。このブログです。

 そもそも、このブログの存在自体を忘れていた私。インプットだけでなくアウトプットをしたいな、と今年に入ってからずっと思い続けていたわけですが、本日やっと思い指を上げキーボードを叩き、文章をこしらえた時に、ふと、「そういえば、ブログ作らなかったっけ?」と思い出したわけです。

 「「幼女独裁序説」?けったいな名前のブログを開設したものだなぁ、過去の自分は。」と、今の自分は思ったわけですが、問題はそこではありません。なぜ、一年以上もブログの更新がされなかったのか。それが問題なわけです。

 自分なりに考えてみたわけですが、やはり一番の要因は「上手くやろうとしていた」ことだと思うのです。私は文章を書くのが好きです。おそらく文章を読むのと同じくらいに好きです。現に今この文章を書いている私はわくわく、どきどきしています。自分の表現したいことをうまく言語化できずに、むずむずすることはあるけれど、やっぱり自分の中にある何かを文字化して表現することはいいことです。

 しかし、文章を書いているとふと思うのです。「それなりの年月を生きてきて、大学も出て、本も他人より読んできて、それでいて、こんな文しか書けないのか。」

 そう思い始めるともう終わりです。書きかけの文章は溜まっていく一方。いや、書きかけているならまだいいのです。頭の中で文をこねくり回し、自分が納得するまでパソコンの前に座らない始末。そして、色々と理由をつけ(「時間がない」「仕事で疲れている」)、文章を書くという行為から離れていくのです。

 嗚呼。なんと悲しいことでしょう。楽しかったはずの文筆活動が、「上手くやろう」という意識が先行するあまり、なんとつまらない苦行に堕ちていくことか。そういう時、私はほろほろと涙をこぼすような気持で、深夜のコンビニへ向かい、あんまんを食べます。

 深夜に食べるあんまんは美味しく、お腹も満たされるのですが、心は満たされません。私は何かしらの形で私を表現しなければ生きていけない人間なのです。たぶんね。

 というわけで(どういうわけで?)、このブログは息を吹き返すことになります。純粋に文章を書くのが好きなら、公開領域にアップしなくてもいいじゃないかと仰る方もいるかもしれません。しかし正直なところ、私にも承認欲求はあるのです。私しか読まない文章にどれほどの意味があるのだろうか。同じ人にしか読まれないのならば勝手に生み出された文章も不憫です。

 他人に読まれる文章を書くという行為は諸刃の剣です。書く時の気持ちがきゅっと引き締まります。だらだらと誤字脱字だらけのしょうもない文章を書き連ねるのも良いけれど、せっかく文字の連なりとしてこの世界に生み出されるのだから、「きれい」な文章になっていた方が書かれた文章にとっても幸せでしょう。一方で、「他人に読まれるのだから」と気負いすぎると、文章を書くのが苦行になってしまうこともあるかもしれません。書く内容についても、自由には選べなくなるかもしれない。

 「人気を出したい」「もっと読んでほしい」「認められたい」そういった気持ちが強くなれば強くなるほど、指は重く、書くという行為は苦しいものへと変わっていくような気がします。私は「私の文章」を書かなければならない。心の赴くまま、自分が「きれい」だと思えるような言葉のつながりを探していきたい。この気持ちを忘れないように私は文を拵えていきたい。

 日々感じた些細なことや、頭にふと浮かんだ創作のアイディアの一片などがこのブログには綴られる予定です。運悪く(良く)このブログにたどり着いてしまった誰かに少しでも響く文章が載せられるといいと思っています。